時は空しく過ぎない
時は回る。時は移る。しかし、一人一人の人間、その魂を神御自身のお好みに、御希望に合うようにと神は願っておられる。「この魂はこうしよう」と、次の世界のことまで計算に入れて、導こうとしておいでになるのが神様です。時は決して空しく過ぎないんです。
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時は回る。時は移る。しかし、一人一人の人間、その魂を神御自身のお好みに、御希望に合うようにと神は願っておられる。「この魂はこうしよう」と、次の世界のことまで計算に入れて、導こうとしておいでになるのが神様です。時は決して空しく過ぎないんです。
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「神様、あなたが私を作品としてお造りになろうとしておられますが、どうなんでしょうか」と言って、粘土自身が神のコテに対して喜んで刻まれることを願うことが信仰です。そうなりますと、祈りが違ってきます。
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早朝、あるいは時間があるときはいつでも、少なくとも20分は静かな場所に座って祈りなさい。主の御言葉を読み、主に祈りなさい。そうすれば、主の内にすべてを見つけることができるでしょう。そして、この世の出来事に悩まされる必要はなくなるでしょう。
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四福音書を読みますと、キリストは、いつでも一貫して、人々から信ずる心を引き出すことを伝道の眼目にしておられたことがわかります。信ずる心さえ、人々の胸に湧き起こりはじめるならば、その湧き立った心を神に向けしめて、驚くべき奇跡を続々と現されました。
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祈り深くキリストに連なり、キリストと交わっている魂には、直感的に、「こっちに行け」「こうしろ」と絶えずキリストの御囁きを心内に聴くことができます。伝道に行くにも、自分の考えで行くより、先ずキリストの黙示を受けて行く時、そこに必ず、主の御用が待ち構えているものです。
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使命というとき、自分では何のために生まれてきたか、なかなか分かりません。しかし、胸につき上げる神の国のイメージを見つつ、「私はこのために生きるんだ」と、銘々悟らなければなりません。愛なるキリストはあなたに答え給うでしょう。
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人は「私は正しい」と言って、自分の立場を弁護しようとする。私はそういうことを申しません。聖書に照らして、神のみ前に祈って、自分はどうであるかを問うて生きています。
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自分は自分なりにやって来たと思い、それを主張する人がいます。それでは福音でない。「自分に義がない、神に義がある、従って神のみ旨に添いまつって行こう」と常に努力するところに、福音があるんです。
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出来上がってそれ限りの土塊ならば、もう神様はそれ以上、手の懸けようがありません。「神様、どうぞ私の欠点を直して、私をあなたの御心に添うようにしてください!」と毎日、朝から祈る理由がここにあります。
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見ゆる世界、もう出来上がった世界、そんなものは、無から有を創造する神には興味がない。未だ見えない世界の方が大事です。人々が評価せず無視した人間。しかし神様の目には、そんな人間の方が尊く映るかも知れません。
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私たちは神に聴くべきです。神の声を聴くべきです。神に信ずべきです。神に信じて自分の一生を、今からの未来を委せることが大事です。神は必ず導き給います。どうか、祈り深く生きとうございます。
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「お前の実力はこれぐらいでしかない」という囁きが少しでもあったら、敢然としてその囁きに「否、ノー!」と言って応戦せねばならない。隠れ持つ宝を、自覚したら、「眠れるジャイアントよ、起きよ」と呼びさまして、その能力を余すなく発揮せよ!
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自分に隠された電子頭脳を、今までホンの一部しか使っていなかった。否、使うすべをさえ知らなかった。しかし、これをフルに使ったら、どんなに大きなことができるかを思うと、未来が希望でなりません。可能性は未だ試されていない。だからこそ希望がある。
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←『緑の保守』が地方を救う、日本を救う、世界を救う! 「あなたも私も緑の保守派。名のる名のらぬ人の自由」。
昨日は、寝たのが11時で、起きたのが3時半。
4時間半は寝られた計算になります。
昨日の2時間睡眠よりはずっとましですね(^^;
しばらくネットをやってから、自転車で往復1位時間の100円ショップまでGO!
朝のエキササイズですね。
今日は、いつもの野菜千切りセットが売り切れだったので、タマネギのスライスとレタスのスライスの2つを買いました。
それをミックスしてドレッシングでいただきました。
今日の「燃えよ剣」(新撰組副長だった土方歳三が主人公)はお休みでした。
朝食後、近所にある図書館に行って、4紙ほどの新聞にざっと目を通してきました(ジャパンタイムスも読んだ)
今日は暖かい一日になりそうですね♪
判りやすい政治解説ブログ と真面目な日記ブログ と高市早苗庵 とやまぎわ大志郎はまっしぐら と総理を目指すぞ山内康一 とゆかりちゃん奮闘記 も開設しています。
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祈りは、ほかの手段では不可能だとわかっていることを可能にする。そして、この世の規則や考え方に反するばかりか、まったくもって不可能と思われている不思議なことを人生において経験する。
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敵に追い回される真っ暗な絶望状況にあっても、「神様! あなたが私の心の光となってさえ居給うかぎり、絶望しません。あなたこそは私の生命の力です!」と言い切ったところに、ダビデの信仰の奥義がありました。
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胸を焦がすほどに神に光波される時、私たちは人生の暗夜行路も神の光に照らされて歩いて行けます。また、遠くまで展望しながら、希望の人となり得る。
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Thou waitedest age: wait death nor be afraid! 「汝は老年を待った。今や死を待ちて 恐れるな!」 老年こそ最善の時だというのは、若い時には経験できないこの心、人間性を試すことができるからです。
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土壇場に来た時に、人間が自分で小細工しましても、神が解決しなければ、運命というものはかわるものではありません。神により頼んでいる時に、必ず運命は展開します。
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信仰とは、神の力によって救われゆく経験である。神の愛は我ら信者を祝福せずにはおかない。人間の力は弱いが、神の全能の愛が我らに加持するので、劇的な運命の転回と祝福を受ける。信仰は成功と勝利を予想する。
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行き詰まって、もう駄目だと思う究極的状況に入って絶望しそうになる時に、突破してこそ信仰です。全然予想もしない答、解決がつけられて、「ああ、神様、あなたは生きておられる」と言う時、無限の神と共に生きているということが分かるんです。
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信仰とは、聖霊の賜物である。原始福音とは聖霊に浸り生きる経験である。聖霊のバプテスマを求めよ!
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すべて神が知り給う、神が見給うと思うと、私たちは孤独であって孤独ではありません。
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魂が目覚めた人間なら、「自分には、人と違う神様の導きがありはしないか」と思うものです。「神様、私はどうしましょうか」と言って神に問答し始めたら、不思議な道が開かれてゆくものです。
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祈りとは、いまだ事ならざるに、ある事を感じとるものです。多くの人は現実に直面してからあわてふためく。しかし、祈りの人は現実が起こる前に、それを先見することができます。
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ペンテコステは今も繰り返す。「ヤーヴェの言わが心にありて、火の我が骨の中にとじこもりて燃ゆるが如くなりたれば、忍ぶにつかれてたえがたき」(エレミヤ書20・9)までに、聖霊の火よ、わが生命を燃焼なし給え!
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キリストがヨルダン河でバプテスマを受けられた時、天より声があった、「我が最愛の子よ! われ汝を喜ぶ」と。私たちも神に喜ばるる、最愛の子でありたい。神の寵児でありたい!
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光の中を歩む者は、つまずかず、道を間違えることもない。キリストは世の光である。キリストに照らされて、私たちは善悪を弁えることができる。
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イエス・キリストの名こそは、黄金以上の価値であり、光彩である。「黄金に比ぶるも、多くの純精金(まじりなきこがね)に比ぶるも、いやまさりて慕うべき」(詩篇19・10)は、主の聖名である。
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愛は自己を焼きつくすエネルギーだ。神に愛される愛をもって、自分を忘れ、自分を失うほどにも、隣人を愛してゆこう。愛は自分を燃焼する。愛の燃焼は強く眩い。
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「主の御霊のあるところに、自由あり」。主に信頼して生きる者は、主体的に自己を確立する。
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主イエスは叫んで言った、「だれでも渇ける者は、我に来りて飲め。我に信ずる者は、聖書に言う如く、その腹から生命の水が川となって流れ出るであろう。これは信者が受けようとする御霊をさして言いたもうたのである」と。腹の底から、生命の水を湧かす人間であれ!
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「光あれ!」と自分に、幾度も幾度も言い聞かせるならば、あなたの人格に光が輝き出で、世の光として、周囲の暗黒を照らし得る光の子となれるのだ。神は“光”なのだから。(ヨハネ第1書1・5)
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Be Love! 愛にあれ! 愛であれ!「愛は神から出る。すべて愛をもつ人は神から生まれる。愛なき者は、神を知らず、神は愛であるからである」。神を愛し、神に愛されて生きる者がキリスト人である。
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Be Lord! 主よ、在り給え! 主で在れ! キリストは「我は主なり」と言い給うたが、主の臨在あれば、私たちも、また「主の子」らしく、運命の主人公として、運命を支配し得るのである。
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Be Life! 生命あれ! 生き生きとしてあれ! いつも、神の根源的な生命にあふれて、情熱の血を赤々と燃やしてキリストを生活してゆこう。
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「光あれ!」と神言いたまいければ、光があった。私たちは自分に対して、かくあれかし、と思うことは、その如くなる。思念するエネルギーは具象する力をもつゆえに、“汝の信ずる如く、汝になれ”と主イエスは言われた。
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どんな粗末な器でもよい、私たちの価値は器になく中味にあるのだ。人間が神霊の容器であるところに、宇宙的な存在価値がある。
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信仰とは、何か高遠な宗教哲学を信じてみたり、難解な教理を信奉することではない。生けるキリストに従って、偕(とも)に歩くことです。主キリストに従って旅する、神人協力の生活のことです。
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祈りによって神の計画を変えることはできない。そうではなく、祈りの人自身が変えられるのである。
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神に従って生きておれば、「時期が来れば実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところはみな栄える」。生命の川の水がぐんぐん魂を潤すからです。
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ああ貴神(あなた)こそ、われらに生命の光であり、愛と叡智の根源であり給う。願わくば、今日も聖顔(みかお)の光を仰がしめ、心の暗黒を駆逐し大光明で包み給え!
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人間は何を喜びとするかによって、その人の内なる性質がわかります。神に祝福された人はまず何でわかるかというと、「ヤーヴェの御指図(トーラー)を喜ぶ」という点です。
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内なる真我生きづかずして、他を愛する余力もあり得るものでない。霊の成長にまって愛も大きさを加える。信仰と愛は一つのことである。
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祈りと瞑想によって自己の内部の霊は発芽する。霊性の発芽は愛の伸長である。神の光に直面することなくして、自己は伸びぬ。自己が生長せずして愛は伸びない。
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人生に挫折し傷つきひるむ箇所こそ、霊の接触点なのであって、その傷口からキリストの御霊の血潮がその人の魂に注ぎ込まれるのであります。人生の受難にひるんではなりません。
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祈りとは、いわば聖霊の中で呼吸することである。祈り深い人の生命に神が自分の聖霊を吹き入れるので、彼らは『生きる霊』となる。
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さあ、起ち上がって行動しよう! いかなる運命にも勇気をもって。学べよ、労働することを、待つことを! 理想が大きければ大きいほど、待つことを学ぶ人間にならねばなりません。
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信仰とは生きることだ! 如何なる困難にも挑みかかって、突破せよ! 手をこまねいて青白いインテリのような信仰は持つべきでない。
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心の太陽よ、わが内に踊り昇れ! 「汝らには義の日いでて昇らん。その翼には医やす力あり。汝らは牢より出でし子牛の如くに踊らん」(マラキ書4・2)
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黙って友のため「地の塩」となりゆくことを、今日も祈誓しよう。良い土地に落ちた種は実を結んで30倍、60倍、百倍にもなるからである。
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無尽蔵の天に宝蔵をもてばこそ、よく清貧を保ち、豊かに生きる喜びがある(コロサイ書2・3)。いつも金銭に独立して、黄金以上のもので地上を独歩して進めよ。火にて験された純金よりも純粋な信仰に精錬されて、誇らかに生きよ!
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月の陰陽に海潮も干満し、月に働いている天則が私をも支配する。人間は神の法則をはなれて生き得るものでない。天地の創造と運行に働く叡智をして、自分にも作用せしめ、これに自分の気息を合わせて生きるところに、大宇宙との調和がある。
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もし、あなたの現在の境遇が揺すられ、ひどく不安であるならば、神機は熟したのだ。貴方は思い切り現状を棄てて巣立ちし、出エジプトするがよい。そこに神意があるからです。
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どんな運命に出会っても、ひしがれることなく、勇気をもって、元気を出して働こうではないか。しかもなお小さな成功に甘んずることなく、絶えず成し遂げつつ、さらに大きな理想を追求しながら、立ち上がって働こうではないか。
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私たちは様々な人生の苦難に打ちひしがれた時に、どうしたらよいか。それは、偉大な人格に出会うことである。
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偉大な人々の生涯を仰ぐ それは私たちの生涯を sublime(サブライム 崇高)なものとする。
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ハートが燃やされ、ハートが感激し、熱涙をこめて生き始めますと、毎日毎日、ドラマチィックな出来事が絵巻物をくり広げるように起きてきます。頭だけの信仰をやめよ!
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祈祷は霊肉の格闘であり、戦場です。夜もすがら、ヤコブは天使と格闘して、足がびっこになるほどでした。
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本当の祈りは、腹の奥底からほとばしり出るものです。一旦、緊急を要する願いの場合には、言葉や思いを突きぬけて、燃ゆる火のように、うめき迫るものであります。
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ただ一ぺん信ずるだけでない、信じて信じて信じ続けること。目を覚まして感謝のうちに、勝利の前味のうちに、祈り続けることです。
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マイナス、マイナスが積み重なって、自分の人生ももはやこれまで、と思われるとき、その時こそ、信一すじに立ち上がる時です。
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私たちが神の道を歩むならば、毎日毎日のために、その力とその課題とがおのずからやってくる。これらを骨おって求めるにはおよばない。わたしたちはただそれらを受け取って遂行すればよい。
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神に仕えるとは、自己の存在のあらゆる瞬間において、自分の全力と全手段を神の意志のために用い尽くすことをいうのである。
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祈りとは、神と語ることに他なりません。神に語ることが、私たちの第2の天性になるようにと願います。
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人間の持つ言葉というものは、人間同士で語るためにしか使わないものだと思われるかも知れません。しかし「人間の言語は神と対座して、神に語るためにも用い得るものだ」と悟られたら、これは皆さんにとって大発見です。
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多くの人は、ほとんど無目的に生きている。「我は何をなすべきか!」と神に問うて生きる人はほんとうに少ない。
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信仰とは、弱い自己の中をみつめることでなく、上を、神を見上げることである。自己逃避の心を転じて、全能の神に逃避する心をもつに至ることが、魂にとって真の救いなのであります。自分ばかり見つめている限り、信仰はわかるものではありません。
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信仰こそは人生の問題を動かし、困難な事件を解決し、人の運命を一変させる大原動力です。信仰者の生涯とは、驚くべき事の連続です。それは、信仰によって行動する時、神が偕に動き、問題に働き給うからです。
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人生の最善が来るために通らねばならぬプロセスは、一人一人によって違います。良いことばかりじゃない。いい日ばかり続いたら、人間駄目になります。局部的に見て一喜一憂したら絶対にいけない。ただ、「この局面をどう神様、あなたはなさいますか」と言って祈ることです。
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いよいよ時代が行き詰まり混乱してゆきますと、小さな見解で何が善いか悪いか議論している間に、時ばかり経ってしまいます。この時に、私たちにとって大切な心得は、『善い人間であるよりも、聖なる人間であれ』ということです。神が所有するもの、神が用い給う物や人を「聖なるもの」と言います。
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“私は祈っている。朝にもう聞いてくださる。だから備えて待ちます”これが信仰です。ただし、時には犠牲も背負わなければならないかも知れませんが、「神様、覚悟いたします!」と言い切って歩むことです。神に対して純粋な信頼を捧げていればこそ、備えて待てるのです。「備えて待つ」とは、私の特愛の言葉です。
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宗教を学ぶに必要な心得の一つは、無限大の神の心を小さな有限なものの中に見い出して行く直感力を養成することであります。
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